日本共産党横浜市会議員
古谷やすひこ
毎年、曜日は違っても、5月11日は平和行進が鶴見区に入る日。
今年は、「総指揮者」の役割もいただきました。
1958年から始まって以後、核兵器廃絶をかかげる平和行進は、かかさずおこなわれ、毎年十万人あまりが参加する大きな国民的な運動。この草の根からのとりくみは、核保有国までもが核兵器廃絶の「明確な約束」をせざるをえないところまで国際世論を動かしてきました。日本でも全国の地方自治体の77%が非核平和宣言をおこない、非核三原則が国是となっているのも、こうした国民的な運動の成果です。しかしながら、ここ横浜市は非核平和都市宣言を行なっておりません。市議会の中で、1970年と1984年に二度、非核平和都市宣言をするべきだという決議を行いましたが、歴代の市長は行おうとしませんでした。現林市政でもこの問題は、全く変わりません。平和を願う市民の声を集めて市政も動かしていきたいと思います。
このコースは5月6日から東京夢の島を出発して、そして今日は港北から鶴見へとタスキをつないで明日は神奈川区へと平和の思いをつなげる行進です。皆さんの平和への思いを、今年の原水爆禁止世界大会の会場の広島へとつないでいきましょう。
この平和行進の鶴見のコースでは、安善にある米軍施設「鶴見貯油施設」がゴール地点です。
その「鶴見貯油施設」の説明を地元議員として毎年以下の通り、行っています。
横浜市の米軍基地の歴史は、昭和20年、第二次世界大戦後に進駐した連合国軍は、横浜市の中心部や港湾施設などを広範囲に接収しました。接収は、戦災を免れ、わずかに残った市街地の住宅、事務所、劇場、百貨店から、官公庁、学校、公園などの公共施設にまで及び、市の都市機能はほとんど麻痺するに至りました。また、中心部以外でも旧軍の施設などが大規模に接収されました。このため、戦前の横浜経済を支えていた商社、金融機関や企業の本店は、東京その他の地域への移転を余儀なくされ、大桟橋をはじめとする港湾施設の接収とあわせて、横浜市は復興の原動力ともなるべき経済基盤を失うこととなりました。
本格的に、米軍からの接収解除となっていったのは、1950年以降のことです。横浜税関や山下公園・田奈弾薬庫、これは現在は青葉区にある「こどもの国」があるところです。ここ数年では、深谷通信所や上瀬谷通信施設などの大規模な施設が返還されています。
しかしいまだに、横浜市内には、4つの施設と一つの水域が返還されないままです。根岸住宅地区、池子住宅地区及び海軍補助施設、横浜ノース・ドック、小柴水域、そしてこの鶴見貯油施設です。
間もなく、民家が途切れると、左側に金網に囲まれた広大な広場とその奥にタンクが見えてまいります。これが、安善の鶴見貯油施設のエリアⅡです。この施設は、エリアⅠとエリアⅡに別れていて、今見えているエリアⅡから7~800m離れた右側にエリアⅠがあります。
もともと、この鶴見貯油施設があった場所には、1923年(大正12年)から日本石油(現・JX日鉱日石エネルギー)の鶴見製油所が操業していました。しかしこの鶴見製油所は1945年(昭和20年)に空襲で壊滅、その後この施設を国が借り上げ米軍に提供して、現在に至っています。
広さは、左側の見えるところがエリアⅡ、その先の右側に見えてくるのがエリアⅠで、合わせて18万3000㎡、テレビなどでよく言う東京ドーム(4万6000㎡)に例えるとまるまる4個が入りまだ余るほど広大な土地です。エリアⅡには、タンクが13基、エリアⅠには、タンクが7基で、合計20基のタンクが並んでいます。この基地で働いている人は90人程度いるということです。
この施設の役割は在日米海軍横須賀補給センター燃料部の出先として、横須賀市に所在する貯油施設(吾妻倉庫地区)からタンカーで輸送された航空機燃料(JP-8)を一旦貯蔵し、ここからさらに、タンク車やタンクローリーを使用し、横田飛行場や厚木海軍飛行場まで航空燃料を輸送する。この施設の貯油能力は約570万バレル(12万5千キロリットル)あり、在日米軍の貯油施設としては最大の規模を誇り、全アメリカ軍の貯油施設としても最大級である。安善駅から南武線を経由して青梅線の拝島駅へと輸送し、さらに拝島駅からは横田飛行場へ通じる専用線を経由して航空燃料が届けられる。また海から輸送して青森の三沢基地にも海上輸送されています。この道路の脇にも、パイプを通じて燃料が流れています。
ここで扱われているジェット燃料は、他の燃料に比べていくつか特徴があります。一つは、「発熱量が大きい」ということ。少ない燃料で長い距離を飛ぶことができることです。次の特徴は、「揮発性が高い」こと。これは高度で燃料に着火する場合、揮発性が高くなければ着火しやすくするためです。次に、「引火点が低い」こと。つまりまとめれば、発熱量が大きくて、揮発性が高くて、引火点が低いわけですから、危険性が非常に高い燃料だということです。
1979年の7月には、落雷があり、エリアⅡの306号タンクに引火し大規模火災が起こり4時間半にわたって燃え続けました。この基地内にも、米軍の消防隊がいますが横浜市の消防局消防隊と共同活動で消火されたそうです。このことがきっかけで様々な災害対策がなされています。消火設備、冷却用散水設備等の整備工事が行われました。災害対策が取られたことはいいことですが、その全ては、国の横浜防衛施設局が工事をし、お金もいわゆる「思いやり予算」から、つまり私たちの税金からだされて整備されています。また、地震などで油が流出した場合のため、防油堤及び流出油防止堤等の整備改修工事を完了した。これもまた「思いやり予算」から出されています。
3・11東日本大震災を教訓にして、国や県や市でも首都圏直下型地震に対応するような様々な対策が取られ始めていますが、臨海部のコンビナート地域には、3・11の際に市原市の液化石油ガスタンクが爆発事故を起こし燃え続けたことは記憶に新しいところです。横浜市がコンビナート地域の企業などにアンケートを行った中で、液状化の被害があった事業所は4事業所、護岸・係留施設への被害は7事業所9件で、うち1件は大規模な被害となっています。しかし沿岸地域全体が民有地であることから、全容は分かっておりません。私は、大規模な地震や津波が起こった際も火災や危険物が漏えいを防ぐ予防策を取ることと、万一の場合、消防や避難などの応急対策を抜本的に強化して、住民の命を守る防災対策へと転換するように求めています。
そして、その根本には、こういった危険な施設はなくし、この貴重な土地を横浜市にかえしてもらいたいと要求します。なぜ地代も取らずに居座り続けるのか。どう考えてもおかしいと思います。